■養花雨







「風邪をひきますよ」
そう言って、景虎に番傘を差し出したのは直江だった。

「藤を、見ていたんだ」
景虎は雨に濡れた肩口に手を当てながら、目の前の藤を見上げていた。
三寸ほどの房。
だが雨の雫が滴って、もっと長い房だと錯覚させられる。
もとは野生の藤である。いつの間にか蔓を伸ばして景虎の庭に咲いていたものだ。
今では藤棚を作って、昼は涼みの場所となっていた。

「それにしても、よく降る雨ですね」
直江は傘を差し出したまま、景虎の斜め後ろに立っている。
左手で傘を持ち、右手は懐から出した手ぬぐいで景虎の肩を拭き始めた。

このところ、雨がしきりに降り続いている。
つい半月前までは湿気すら感じられなかったのだが。

「花が、雨を呼んだのかもしれないな」
景虎の言葉に、直江は手の動きを止めた。
「そう・・・なのかもしれませんね」
「花が求めたのだろうよ。自らの美しさ、その香りを際立たせる媚薬をな」

この人は・・・

直江は口を開こうとしたが、何も言えず景虎のうなじを見つめた。
露で後れ毛から雫が滴っている。

「直江」
ふいに呼ばれて、直江は息を止める。
自分の不埒な考えを読み取られたのではないかと心臓が跳ねた。

「お前は、紫藤と白藤どちらが良いと思う?」
景虎はおもむろに振り向くと、手ぬぐいを直江の手から剥ぎ取った。
その手ぬぐいで、胸元を押さえている。
白い肌に伝う雨の雫が、景虎の妖艶さを一層引き立たせていた。

(雨を求めていたのは、この人ではないのか―――)

直江の沈黙を景虎は咎めず、静かに身体を拭きつづけている。

「貴方は、まるで二色の藤のようですね」
直江は吐息交じりにそう呟いた。

「私たち夜叉衆を率いて軍神の如く戦う姿は、薫風にたなびく凛とした紫藤。
そして、今の貴方は闇夜に浮かぶ藤そのもの。内から滲み出るその白藤のように濃厚な香りに
私は誘われている錯覚を起こす―――さしずめこの雨のようなものです」

「私がお前を、誘っていると―?」
景虎の冷ややかな声に、一瞬直江は凍りついた。
だがその瞳はしっとりと露を含んでいて、睫の先にまで色香が漂っている。
ただその光の強さだけは、いつもと変わらない。
直江は、背中を汗が伝うのを感じた。
これは―――巧妙な罠だ。
汗ばむ直江の手を、景虎がゆっくりと触れてくる。



「かげとら、様」
「なおえ・・・」
手から伝わる景虎の熱を感じて、直江は身体の芯に火が灯ったのを感じた。
手ぬぐいがハラリ、と舞い傘が地面に落下する。
気づいた時には、景虎の手をねじり上げその唇を貪っていた。
幾らか厚みのあるその唇は、雨に濡れて熟した果実のようだ。
甘く滲み出る果汁を、直江はただひたすらに吸い続ける。
「・・・んっ・・・!」
直江が舌を入念に絡ませて音を立てると、景虎は必死にしがみついて来た。
二人の胸が合わさり、一層熱を帯びていく。
たまらなくなって、直江は景虎の懐に手を差し入れた。
既にその胸元は固くなっていて、直江の手の動きに、景虎は眉根を寄せる。
何度も吐息が漏れて、そのたびに直江は逃がすまいと景虎の口腔内を侵しつづける。
ビクッ、と景虎の身体が跳ねた。
「あっ・・・」
景虎の嬌声に、直江はふと我に返った。
景虎の上げた嬌声は、直江の手によるものでは無かった。
藤から滴った雨が、景虎の背筋に流れ込んだのだ。
直江のこめかみにも、同様にその雫が流れていた。
唇を解放して、指先で辿った。
先ほどまで直江が吸い続けていたせいか、唾液が艶を出している。

「申し訳、ありませんでした・・・」
直江は己の左手首を掴むと唇をかみ締めた。
景虎の、無意識な誘いはいつも直江を困惑させる。
無意識であろうその行動は、おそらく潜在的に計算し尽くされているのだ。
衝動的に、直江は景虎を犯したくなる。
だが、景虎を抱いてしまった後自分はどうするだろう?
また逃げるのか―それとも、敗北者の弁解を振り翳すのだろうか。
まだ見ぬ景虎と、己の姿に誘惑される。

直江の懊悩とは裏腹に、景虎は落した手ぬぐいを拾い上げると直江に押し付けた。
自分で傘を差すと、また元のように藤を見上げている。
その背中は、全ての存在を拒絶しているようで直江はもう声をかけるのを止めた。

(結局、一人で舞い上がっているに過ぎない)
直江は僅かに自嘲の笑みを浮かべると、手ぬぐいに残った微かな熱を握り締めて裏口の方へ歩いていく。
肩口に振り返って見た景虎の顔は、傘の影に隠れて見えなかった。
景虎の見ている紫の藤を見遣ると、新たに白藤の蔓が巻きつき始めていた。


咲き誇る花の乾きを潤す雨を「養花雨」と人は呼ぶ―――。


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