■春雷



元号が「天元」と改まった年の始め。

今帝の関白・藤原頼忠邸では、長女・遵子の入内の準備で賑わっていた。
右大臣・兼家の娘・詮子に先んじての入内とあって、周囲の注目も大きい。
遵子が入内して男御子を生めば、名ばかりの関白と言われる頼忠も外戚となりうることが出来るのである。
頼忠の父・実頼も実権の無い摂政・関白であった。
どちらかと言えば今帝の祖父であった、故右大臣・師輔の一族が政をとりしきっている傾向にある時流を変えたいという
小野宮一族の期待も大きかった。

そんな折、頼忠邸に右大臣兼家が訪れた。
兼家は、兄・兼通との政争に敗れ一度は治部卿に左遷されたが、兄の死と頼忠の関白就任によって右大臣の座に返り咲いていた。
兼通は関白の後見に従兄弟の頼忠を推挙し、死後、不仲であった実弟・兼家が実権を握らぬよう策を弄したのである。
頼忠の関白就任は、まさに転がり込んできた幸運と言えるかもしれなかったが
頼忠はその好機を利用して娘の入内にこぎつけた。
無論、兼家も娘の入内を焦りもしたが政界への復帰を少なからず後押ししてくれた頼忠を慮ってか、あまり表立っての動きは見せずいた。

その兼家の訪問である。
頼忠は、先立って祝いの言葉を述べに来た兼家を表面上は快く受け入れた。
頼忠は父・実頼に似て勤勉実直の気質であり、元来兼家のように激しい気性は持ち合わせていない。
さて、頼忠と兼家には同年の息子がいる。
頼忠の嫡男・公任と兼家の五男・道長はともに13歳。
あと2、3年もすれば元服、という年頃であった。
今回、兼家はこの年若の息子を同行させていた。
両者の思惑はともかく、公任と道長は正式に対面することになった。

「いや、三条殿の屋敷を一度見せてやりたいと思いましてな。道長は貴殿のご子息と同年でもあるのでこれを機会に仲良うさせて貰えれば幸いかと」
「それは重畳。公任も、同年の輩が出来れば少しは世間さまの事を知ることが出来ようて」
「誰ぞ公任をここへ」

頼忠の呼びつけで公任が母屋へ現れると、同じ背格好ほどの少年と目があった。
(誰だ?)
不躾な視線で公任を見る道長に、公任は不快感を催したが客人の前であったので心の内に止めるにいたった。
「右の大臣、東三条殿だ。こちらはご子息の道長殿。幼少の頃にも顔を合わせたことがあるはずだが、覚えてはおらぬかな」
父の説明で、公任はだいたいの事情を飲み込んだ。
(右の大臣・兼家殿と・・・確か下のご子息)
「今日はこの屋敷をご覧になられたいとのこと。道長殿のお相手を致せ」
「申し仕りました。では道長殿、こちらへ」

常日頃から、同年代の貴族の子息と引き合わされている公任はいつものように道長を庭へと案内した。
「道長殿は、詩歌はよく嗜まれる方ですか」
公任はいつも通りの質問を投げかけてみた。
「下手の横好きですが、そこそこに」
相手もさほど個性的な返事を返さなかったので、公任は特に感慨を催さなかった。
一通り庭を案内すると、釣殿で休もうということになった。
先ほどまで、公任が手習いをしていたので机と姉と打ったままの碁盤が置かれたままになっていた。
「散らかして申し訳無い」
公任は、近侍のものを呼んで片付けさせようとしたが
「ちょうど碁盤があるのですから、一局さしませんか」
道長がそう申し出たので、相手をすることになった。

改めて向かい合うと、その目が気になった。
眼光が鋭いのだ。
公任は、そういったものでは威圧感を感じることは無いが道長の目はどうにも気になる。
(値踏みをされているようで嫌だ)
そう思っていると、道長が口元に笑みを浮かべた。
微笑というよりは、口の端を吊り上げるあまり品の良くない笑みである。
「せっかく関白のご子息と碁を打つのだ。何か賭けませんか」
「何・・・?」
道長の言葉に、公任は思わず眉根をひそめてしまう。
「我が祖父・師輔と民部卿であった元方殿の庚申の話はご存知だろう」
無論、公任もその話は聞かされていた。
「天暦の帝の皇后であらせられた伯母上に宿った御子が男御子かどうかを、双六の目にかけたという。
その強運にあやかって私も何か賭けたいと思うのだが・・・どうかな?」
先ほどまでとは打って変わって、不遜な態度である。
「あまりにも大胆なお申し出だが、一体何を賭けるのですか」
なるべく平静を保って公任が聞き返すと、道長は
「今帝の男御子を、我らの姉のどちらが産むか」
と、不敵な笑みを浮かべながら言い放った。
「何を・・・」
あまりにも大胆にして不敵な物言い。
その上、不遜な言動である。
しかし公任は
「よろしい」
一言だけやっと言い返すと、道長の提案した賭けにのってしまった。


結局、一目半の差で公任が負けた。
公任は、自分の実力を買い被っていてただけに動揺した。
(たかが賭け―けれど・・・)
必死に動揺を押し隠そうとする公任を余所に、道長は神妙な面持ちで手にしていた扇を閉じた。
「私が碁で勝つのは珍しい。遊びのつもりだったが何やら因縁を感じるな」
「私が碁で負けるのも珍しいことですよ。特に同年代の人間には」
公任も負けじと言い張るが、内心の動揺はなかなか落ち着かなかった。
「それは申し訳無いことをしたようだ。ですが、負物は望みのものを頂きたい」

負物―俗に負わざとも言うが、碁や双六で勝負に負けたものが勝ったものに与える引き出物である。
「私に用意出来るものであれば何なりと」
公任の精一杯の虚勢である。
「そうだな・・・」
道長は座位を崩して庭の方を眺め、また手元に目線を戻すとパチン、と扇の音を立てて公任を見据えた。
その視線の獰猛さに、思わず公任は身構えた。
「貴殿だ」
「・・・なに・・・を」
言葉の意味に一瞬戸惑いを感じて公任は目を見開いた。
「貴殿は、この年にして学問・管弦・有職故実の識見に長けているときく。今はまだ無理だが私がもし、貴殿の上位に立てたならば
そのときは―――私の為にその才を振るうこと。宜しいかな?」
「無礼な・・・」
(何ということを言ってのけるのだ、この男は)
あまりのことで、公任は言葉を紡ぐことも出来なかった。

「そろそろお暇するぞ道長」
と、庭先から兼家が顔を覗かせた。頼忠もいる。
「碁の相手をして頂いていたのですよ父上」
立ち上がり様、道長は座り込んだままの公任の耳元に顔を近づけると
「お忘れなきよう」
それだけ言って、兼家の元へと釣殿を降りていった。
「お前のことだから、どうせ負けたのであろう?」
意地悪そうに問う父に道長は「さあ、どうでしょう」と言ったきり笑ってその場を濁してしまった。

公任は、父と二人で兼家親子を見送りながらふと吹き込んで来た風の生暖かさに身体を振るわせた。

『お忘れなきよう』

そう耳元で囁かれた声を思い出してゾッとした。
おもむろに西の空を見遣ると、小さな稲妻雲が近づいてくるのが見えた。

春雷―――季節の嵐の訪れを、公任はただ一人浮かぬ顔で見つめていた。



<<back