■片恋文



初めてその青年を見かけた時、まだ相模と呼ばれる前の彼女は思わず息を潜めたものだった。
洗練された所作、洗練された笑み。
御簾越しではあったが、彼女は出来うる限り目を見張った。
彼女が生まれ育った環境では会うことの無かった類の貴公子が、華々しく佇んでいた。

ふと、視線が交錯したような気がした。
その青年はほかの手練れた女房と会話中だったが、右目が自分を見たような気がしたのだ。
思わず扇で顔を覆ってしまった彼女ではあったが、耳だけは彼の方へと意識を集中させていた。

「・・・そういえば、新参の方にはまだご挨拶していませんでしたね」
「ちょうどそちらに控えておりますよ」
急にほかの女の話題を振ったので、答えた女房の声はいささか冷たかった。
一方、これまた急に彼の興味の的となった彼女は身を硬直させながらも、身体をずらして彼の方を向いた。

「ほら貴女、右中弁さまにご挨拶なさいな」
右中弁さま・・・この方が。
緊張に詰まる喉を精一杯動かして、彼女はか細い声を振りしぼった。

「ごきげんよろしゅう、・・・定頼さま」
「おや、私の名をご存じとは嬉しい限りだ。貴女が頼光殿のご息女か」
「・・・はい。以後よろしゅうお頼み申し上げます」
生真面目な返事が新鮮だったのだろうか。
定頼は一瞬呆けたような顔つきになった後、緩やかに破顔した。
「そうだ。宮仕えに上がられた祝いに何か贈り物をいたしましょう。何が宜しいか?」
定頼の申し出に、周りに控えていた女房たちかざわついた。
羨望と嫉妬の囁きと眼差しが、彼女に注がれる。

「・・・文を下さい。たとえ一字でも構いませんから・・・」
勇気を振り絞って言い放った一言だった。
彼女自身、何故そのようなことを言ったのか分からなかった。
けれども、何かが彼女を突き動かした。
相模の言葉に、面食らった定頼だったが
「何の文字が宜しいかな」
と問い返して来た。
「では、『お』の文字を」
相模の返事に満足した様子で、定頼は
「出仕する楽しみが増えました」
と小さく呟いて退出していった。

(何故あんなはしたないことを言ってしまったのだろう)
自分のしでかしたことに赤面しつつ、もの悲しくなって相模はため息をついた。
(呆れられてしまったに違いない)
御簾越しに吹き込んでくる風が、ほんのり暖かみを増した日の出来事だった。


夕刻、相模のもとへ白梅の枝と共に定頼からの文が届けられた。
(まさか、本当にあの方が)
紐解いた文からは、焚きしめられた梅花香の匂いがした。
中には歌が一首。

おもふ人おもはずとのみおもふ人 思ふはおもふかひなかりけり
(思う人を思わない、とばかり思う人。そんな人を思うのは思う甲斐も無いことです)

「思えば少しは、通じる思いならば良いのに」
相模はそう口に出して、文を握った手を胸に押し当てた。
幾度となく迷ったが、返歌はしなかった。
相手の戯れを、本気にしては傷つくばかりの宮仕えだと。
そう思いとどまった。

この年、相模は大江公資と婚姻を結んだ。
公資には既に北の方があったが、相模の歌の才能に惚れ込んでいた。
小野宮実資などには、「相模を懐抱して和歌を望んでは公事に支障をきたす」とまで揶揄されたほどである。
公資の熱烈な求婚に、相模は折れた。
自ら激しく望んだ結婚では無かった。

相模が三十路に差し掛かろうとする頃、公資は相模国守に任ぜられた。
否応なく、相模は夫に従った。
都から離れれば、胸に秘めた思いも薄れるだろうと。
十代の頃抱いた淡い思いは、今なお相模の心に影を落としていた。
夫を通じて聞く定頼の風聞を知らないではなかったが、それでも彼の昇進を聞くとわが事のように喜ぶ自分がいた。
参議になった定頼は、もう手の届かない場所の人間だ。
正妻との間に一男も授かっているという。
前途洋々たる定頼は、自分のことなどもう忘れてしまっているだろう。
そんな折り、出立を前にして定頼から突然文が届いた。
(何故今頃になって)
こんなに私の心を乱すのだろう。
定頼の気まぐれを、相模は恨めしく思った。

別れては二とせ三とせあはざらん 箱根の山のほどのはるけさ
(別れてしまえば二年三年、会うことはないでしょうね。箱根の山の何という遥かなことよ)

(あの方なりの社交辞令なのだ)
そう割り切って、相模はあえて返歌をしなかった。
割り切らなければならないのは―相模の方だった。



相模国に下向している間、相模は走湯権現へ百首歌を奉納した。
一心に歌を詠じながら、その中の一首に定頼への返歌をそっとしたためた。

あけくれの心にかけて箱根山 二とせ三とせいでぞ立ちぬる
(常々参詣したいと思っていた走湯権現に箱根の山坂を越え、 2、3年来の念願が叶い出かけて参りました)

夫の浮気、都に残してきたほのかな恋心、身の上の行く先。
様々な思いを託した歌に、権現から見返りの和歌が届けられた。
一首一首の返歌を読み解く中、相模はある和歌に目を見張った。

したにのみくゆる 思ひはかやり火の煙をよそに思はざらなむ
(心の中の悩みを密かに悔いる思いは、燻る蚊遣火の煙と無縁ではないと思って欲しい。 両者はともに、「くゆる火」なのだから)

「悔ゆる、思ひ」
相模は思わず口に出してみた。
何を悔いることがあるだろうか。
夫は既に土地の女に手を出し、わが身に自由などない。
冷淡な夫の態度に寂しさを感じつつも、どこかで安心している部分があることも否めない。
(都のあの人は―)
定頼のことを考えようとしたが、相模は思いとどまった。
(あの方は、私のことなどとうに忘れているに違いない)

言葉に出せない思いをせめて歌にと、相模は返歌をしたためた。

かやり火もふせげと思ふを こぞの夏煙のなかにたちぞさりしき
(私の胸のうちにくすぶる恋の火も、夫の愛情によって防いで欲しいと思うのに。それどころかあの人は去年の夏、
 立ち上る蚊遣火の煙とともに私のもとから去ってしまったのです)

夫との冷めた関係を修復出来ぬまま万寿2年、相模は虚しい気持ちを抱えて上京した。
三十路も半ばに差し掛かった初夏のことだった。

帰京して後も夫は新しい妻をよそに持ち、相模の住まう館へはめっきり姿を見せなくなった。
遠い相模の地に居た方がまだよかったのかもしれないと相模は思い始めていた。
同じ都に居ながら、密かに恋焦がれる定頼とは会える仲でも契りを交わした仲でもない。
一人空回る思いがあるだけだった。

「逢ふことのなきよりかねてつらければ さぞあらましに濡るる袖かな・・・」
時雨の降りしきる前栽をぼんやりと眺めながら、鬱々と過ごす日々が続いた。
任地で夫がもうけた妻に対しては激しい嫉妬は感じなかった相模だったが、今回ばかりはそうもいかなかった。
都に居れば夫の夜離れは多くの人の耳に入る。
自分一人が惨めな思いをするのは耐えられなかった。
(あの方の北の方さまは、このような思いをされることはないのだろうか)
多くの女人と浮名を流す定頼の正妻というのはどのような思いに囚われるのだろうか。
決して華やかなだけではない遠い世界を思い、相模は心苦しくなった。
自分の思いとて立ち行くことがあれば、夫の夜離れに苦しんでいる私と同じようにかの人のを苦しめるに違いない。
だが、それでも―。

焼亡した四条宮に定頼が戻ったと相模が知ったのは、それからすぐのことだった。
四条宮に単身戻ったということは、北の方と別居状態にあるということだ。
相模の夫・公資と違うのは一人身だということ。
相模は堪らなくなって、思いもかけず定頼に文を送った。

人知れず心ながらやしぐるらむ ふけゆく秋の夜半のねざめに
(人知れずもの思いの涙に濡れていらっしゃるのでしょうか。深まりゆく秋の夜更けを目覚めていらして)

定頼から相模の元へ返歌が届けられたのは、しばらく経ってからのことだった。

としへぬるしたの心やかよひけむ 思ひもかけぬ人の水茎
(長い間、胸に秘めていた思いが通じたのだろうか。本当に思いもかけない人からの文でした)

何年ぶりだろうか、久々に見る定頼の手蹟を指でなぞりながら相模は動めく心の衝動を抑え切れずに居た。
社交辞令と見てとれる言の葉ではあったけれど、それでも相模は嬉しかった。
(あの方は私のことを思い出してくれたのだろうか?けれど、あの方が北の方さまと不仲になった隙に付け込んでいるようで・・・)
文を届けた使いの者を暫し留まらせ、相模は返歌をしたためた。

もりにける岩間がくれの水茎に 浅き心をくみやみるらむ
(漏れ出でてしまった岩間がくれの水のように、胸に秘めた思いを洩らしてしまった私の文を見て
                           貴方は浅はかな心を推量なさっていることでしょうか)

このときをきっかけに、相模は定頼と幾度となく文の遣り取りを交わした。
季節が移り変わる中、いつもなら鬱々とするはずの変わり目も相模には晴れやかに感じられた。
夫の、よその妻への嫉妬と反感も次第に薄らいでいった。
とはいえ定頼への思いに囚われていても、夫の心離れは憎らしくもあった。
自分の我儘と分かっていても心は正直だ。
ただふとした景色に感動を覚えるとき、いつもと変わらないはずの空模様に心を奪われたりするとき。
真っ先に心に浮かぶのが定頼になっていたのは確かだった。

燃え焦がれ身をきるばかりわびしきは 嘆きの中の思ひなりけり
(燃え焦がれ身をきるほどに切ないのは、ため息をついてはあの方を思うことなのでした)

文で交わす言葉だけではなく、生身の定頼の声を聴きたいという相模の思いは日増しに強くなっていった。
使いの者にも、「自分の邸以外でお目にかかれれば、と思っております」と言伝した。
それからほどなくして、定頼からはこのようにあった。

初霜のおきふしぞ待つ菊の花 しめのほかにはいつかうつろふ
(初霜が降りて菊の花の色が移ろうように、貴方はいつご自分の邸からほかの所へ移って私に会ってくれるのですか)

私は寝ても覚めても待ちかねているのですよ、と暗に示されているようで相模は嬉しくもありまた心憂く感じた。
(一度あの方に会ってしまえば、もうこの邸へは戻れないかもしれない。いえ、それ以上にあの方に失望されるかもしれない―)
相模は逸る心を抑え込み、ためらう思いを和歌に託した。

をりそめば霜がれぬべき色を見て うつろひがたきしら菊の花
(手折れば枯れてしまう白菊のように、一旦貴方のものになってしまったらきっと、
 そのうち離れていかれるのだろうと思うと移るのがためらわれる私なのです)

2人の関係は進まぬまま、年が明けて春になった。
定頼は慎む年であるとして、左大弁の身でありながら蟄居していた。
桜が散り始める頃、定頼が忍んで白河の山荘へ行くという噂があった。
そんな話を耳にした折、相模の元へ見慣れた手蹟の文が届けられた。

「私と共に、儚い桜を愛でてはくれませんか」

その誘いの文に、相模は是非もなく同行を決意した。
とうに決まっていた心が、春の暖かさに紐解かれた瞬間だった。
邸の廂に吹き込んで来た桜の花弁を拾い集めながら、相模は自分の思いもきっとこの花弁と同じなのだと思った。
散りても後に匂う花の香。
いつかは消える袖の花の香。
(多くは望みはしない、けれども一度でいい。この思いを散らせて欲しいと―)

かきつめて胸のあまりにくゆるかな こやいかなりし仲のしのびぞ
(あの方への思いをかき集めて、ひどく胸が燻ることです。これは一体どのような人目を避ける仲だったのでしょうか)

夜陰に身を染めて、定頼と相模は白河の東屋で初めての逢瀬を交わした。
寝待月の明かりだけが、互いの姿を認めるための光だった。

「やっと貴女に再会出来た。・・・初めて文を送ったときは返事も貰えなかったものを」
手を差し伸べながら、定頼は聡明な微笑を浮かべて相模に語りかけた。
「そして貴女が相模へと発つ前にも―」
「左大弁さまの気紛れで傷つくのが怖かったのです」
「定頼、と。初めてお会いしたときの貴女はそう呼んでくれた。2人で居るときに肩書きなど必要ないものでしょう?」
真菰の筵を敷いただけの寝所ではあったが、2人にとっては些細なことだった。
静かに相模を引き寄せて、定頼は困ったような顔をした。
「貴女は相変わらず根が真面目なようだ。とても不安げな顔をしている」
「いいえ、不安などとそんな・・・。ただ、貴方さまとこうしているのが俄かには信じられないだけですわ」
「いつもの貴女は男の私など、よほど積極的ではありませんか」
定頼の言葉に頬を赤く染めながら相模は、
「歌は思いの一番正直なところを詠んでくれるものです。私は貴方のように歌の技には長けておりませんもの」
「歌が貴女を詠む、か―。なかなか面白いことを云う」
定頼の表情に一瞬翳りがさしたのを、相模は見逃さなかった。
陰になってはっきりとは読み取れなかったが、確かにそれは何かを思い出した顔だった。
「・・・北の方さまのことを気にかけていらっしゃるのですか?」
相模は思わず上向き加減に定頼の目を覗き込んだ。
微かな諦めのような色が、その瞳にはあった。
「貴女が気にするようなことではありませんよ」
やんわりとした、それは拒絶だったのだろうか。
相模は自分の顔が強張るのを感じた。
(出すぎた真似を―)
後悔する間もなく、ふいに定頼に抱きしめられた。
「貴女が、今ここに居てくれてよかった」
「定頼さま?」
定頼は軽く身体を離すと、相模のほつれ髪をそっと撫でた。
「貴女も知っての通り、私は色々な方と関係を持った。年上の女、高貴な血筋の姫、凛とした才女。
その中でも貴女ほど長い間私の興味をひいた方は居なかったと思う。一度は忘れてしまっても、貴女は諦めずに居てくれた」
「・・・やはり正直な方ですこと」
「こんな私でも、貴女は好いてくれたのでしょう?」
「そんな貴方だから、惹かれたのかもしれません」

互いの熱が次第に交じり合う。
幾分冷気を含んだ春の風の中で、2人はゆっくりと身を委ね合った―。




後朝の別れは、考えていたよりもずっと穏やかなものだった。
定頼は、随身が急かすのも聞かず出立間際まで相模を慈しんだ。
互いに、この朝は終わりではなく始まりの朝だと感じていた。
少なくとも、相模はそう思っていた。

「貴女の忍び強さを、私にも少しだけ分けて欲しい」

別れ際に定頼はそう洩らし、相模の白い手を一度だけ強く握り締めた。


元の日常へ戻った相模は、定頼との一夜を思い出しては胸の詰まる思いがした。
憧れだけでは諦め切れなかった定頼との逢瀬。
何よりも至福の時だった。
まだあの時の熱を孕んだまま、相模はじっと己の手を見た。

―貴女の忍び強さを

若い頃は桜色だった爪も、いつの間にかすっかり色褪せてしまっている。
定頼に見られなくてよかった。
いや、かの人は見ていただろうか。

―私にも少しだけ分けて欲しい

あの言葉にはどのような決意があったのだろうか。
定頼は後悔して居ないだろうか。
相模は自問自答の日々を送った。

あやめにもあらぬ真菰をひきかけし かりのよどのも忘られぬかな

(分別もなく、真菰のむしろを掛け渡して過ごしたかりそめの寝所も忘れられないことです)

短い逢瀬であればこそ、一層逢いたいと思う気持ちが逸った。
相模が思っていた以上に、定頼は弱弱しく感じられた。
朝まで定頼は相模の手を離そうとはしなかった。
汗でじっとりと湿った指と指の間を、慈しむように何度も撫でていた。
まるで子をあやす父親のようだ、と相模は思った。
勿論、男女の情愛もあったがそれ以上の何かを相模は垣間見た気がした。

次の逢瀬の機会はなかなかやって来なかった。
定頼自身が多忙であったこと、疎遠になった夫の目が僅かながらも相模を監視していたこと。
時運が悪いのだ―。
そう相模は自分に言い聞かせていた。

もろともにいつかとくべきあふことの かた結びなる夜半の下紐
(貴方とともに何時になったら共寝して下紐を解くことが出来るのでしょうか。
 なかなか会うのが難しくて、解くことが出来ないかた結びの夜の下紐なのです)


定頼との逢瀬は、期間が空けば空くほど互いの和歌で憎まれ口を叩き合うようなとても自然なものだった。
ただ、何度肌を合わせても定頼の寂しさが消えることはないのだと相模は思った。
初めての逢瀬ほどの情熱も今はなく、自然と惹かれた心のまま、数を重ねた逢瀬も自然に消滅して行った。

時折、相模は定頼を思い出すことがあった。
とある夏、稲光に身を潜めながらもその美しさに目を奪われた時―。
暗闇を引き裂く鮮やかな閃光。
相模にとっての定頼は確かに稲光のような存在だった。

稲妻は照らさぬ宵もなかりけり いづらほのかに見えしかげろふ
(稲妻は照らさない宵も無かったのだわ。稲妻の光る間たにもあの人の姿を見たいと思うのに、
 いったい何処へ行ってしまったのでしょう、陽炎の如くほのかに見えた人の影は)


年は移り、定頼の息女が藤原教通の子息・信長と婚姻を結んだ。
父・公任が娘を教通にやったように、定頼は亡き妹の面影にも似た娘を甥に託したのだった。
政治的な意味合いを多分に含んだ因縁ではあったが、定頼は左程意味を持たせようと思わなかった。
父はどのような思いだったのだろうか。
矢張りどこかしら浮いた概念を持ったところがあった父を思って、定頼は思わず失笑した。
自分がその父の血を色濃くを引いていることは明らかだった。

「良いところはなかなか似ないものだな」

ひとりごちてはまた苦笑する定頼だった。
宮廷社会で生きて行くのは耐えることと同義だと定頼は思って来た。
相模と交わって、一層その思いが強くなった。
女と男では捉え方は違うが、その強さに性差はない。
相模の心の強さを、少しでも自分の物にしたくて奪ったのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを思いながら、定頼は相模の柔らかな手の甲を思い出した。
年を重ねてなお、凛とした肌だった。
まるで相模の存在そのものを表しているかのように。
どちらともなく別れた。
元より定頼にとって相模は何かを代償にしてまで得たいと思ったものでは無かったが、
それでも物寂しい気持ちに囚われなかったといえば嘘になる。

―貴女は強い人だから。

定頼は届かない言葉を思わず口にして、いつの間にか降り始めた雨空を見上げた。

つれづれとながめのみする此の頃は 空も人こそ恋しかるらし
(手持ち無沙汰にじっと空を眺めてばかりいる今日この頃は、空も人が恋しいらしい)


左大臣頼通の歌合せに出詠した相模の歌は、いつになく賞賛を浴びた。
定頼もまた同じく出詠していたが、そんな些細なことも相模には心にささやかな喜びをもたらした。
定頼が詠まないはずはないのに。
そして同様に自分も詠まないはずはない―。
結局、2人の間に残ったものは「歌詠み」ということだろうか。

歌が貴女を詠む―か。

定頼が云った言葉をふと思い出して、相模は穏やかに笑みを浮かべた。

しのぶれど心のうちに動かれて なほ言の葉にあらはれぬべし
(じっと忍んでいるけれど、心の中の思いが自然と動き出して、やはり歌になって外に表れてしまいそうです)


初恋と出会った春が幾たびも過ぎ、毎年咲き誇る桜に心奪われることもなくなった。
定頼が世を去ったと聞いたときも、相模はただその事実だけをかみ締めた。
来世で会えるなどと、高望みはしたくなかった。

手にとらむと思ふ心はなけれども ほの見し月の影びこほしき

(手にとって自分のものにしようとするような、恐れ多い心はありませんが
 ほのかに見た月の光のようなあの方の面影が恋しく思われることです)

定頼が息を引き取った日の、下弦の月を思って相模は心のうちにかの人を偲んだ。

夫であった公資が去り、そして定頼が去り、相模は一人歌を詠み続けた。
それだけが自分であるための糧であるかのように。
公資との婚姻は、決して最上の幸福ではなったけれどそれでも求愛を受けた当時を懐かしく思えるほどには
思い出を美化出来るようになった。
ただ、定頼と共有した僅かな時間だけは年を経ても色褪せることがなかった。
記憶は薄れても、感覚だけははっきりと呼び覚まされる。
平凡であったはずの生に、一筋差し込んだ夢。
自分にとっての定頼はきっと、始終差し込む陽光よりはほのかに差し込む月光だったに違いない。
今でも時折、定頼の寂しげな表情が脳裏を掠めることがある。
あのときの定頼に、自分は何かを差し出せただろうか。

―貴女の、忍び強さを・・・

きっとあの方も答えなど出せなかっただろうと、妙な確信を感じて。
相模は夕闇を迎えた夜空を仰ぎ見るのだった。

あかずとて恨みしもせじ夕づくよ 有明までも我ぞまちみむ

(美しさを堪能しないうちに姿を隠してしまう夕月を、物足りないなどと恨むことは致しません。
 夕月と同じように美しい有明の月の頃まで、辛抱強く待ち続けて私は月を見ましょう)


<了>
2004.07.18



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相模は平安中期を代表する女流歌人。
本名「乙侍従」と云われていますが、ここでは統一して「相模」と表記させて頂きました。
定頼との出会いと、大江公資との結婚の辺りは年代が前後していると思われますが、まあご愛嬌ということで(^^;
手元の古語辞典なんかを見ますと、妖艶で技巧的な和歌を詠んだーとされています。
「相模集全釈」(風間書房)を参考にさせて頂いてますが、ざっと目を通すだけでも凄い時間かかります(笑)。
膨大な数の歌が残っていて羨ましい限りです。