■常備薬



赤鯨衆における仰木高耶の地位が確立されてからというもの、そのカリスマと行動力に惚れ込んだ隊士は少なくない。
そして今一人の現代人・橘義明もまた、隊士たちの密かな憧れの対象となっていた。

「・・・敵を各個撃破の後、残存勢力を一気に叩く。包囲殲滅網を敷くため、兵力の配置は分散すると考えてくれ」

高耶の作戦案は、いつもながら隊士たちが目を剥くような鮮やかなものであった。
しかし誰一人として異を唱えるばずのないこの会議において、ただ一人反論する人間がいた。

橘義明である。

「仰木隊長、ここまで兵力を分散させては貴方の身が危険です。敵は前からのみやってくるのではないということを考えて下さい」
「な、橘・・・」

高耶は一瞬鋭い目つきで橘を睨んだが、ふと穏やかな顔つきになって腕を組んだ。
何か思案しているようである。
ほかの隊士たちは、内心ハラハラしながらその成り行きを見守っていた。

仮にも一港奉行でしかない橘が、四万十方面軍団長である仰木高耶に意見具申するなど、大それたことなのだ。
だが橘の言うことももっともで、高耶の信奉者である隊士たちは、橘の案が幾分でも取り入れられることを願っていた。


「・・・では、お前が一個小隊を率いて主力の援護につけ」
「御意」

2人の息の合ったやり取りに、隊士たちは胸を撫で下ろすと共に違和感を感じていた。



「なあ武藤。仰木隊長は橘を贔屓しちょらんか?」
「仰木が橘を?」
カメラの手入れをしていた潮のもとに、平隊士たちが何人かつめかけて来た。
「おんし、隊長とは懇ろな様子じゃき何か知らんか?」
「うーん。そう言われてもなあ。確かに怪しいとは思うけど・・・」
「じゃろ?もし何かその映写機で撮れたらワシらに報告しとーせ」
「あ、ああ」

平隊士の一団は、潮にそう告げると通りすがりの中川の足を止めてまた何やら話し込んでいた。
残された潮は、先ほど現像したばかりの写真の束を取り出してため息をついた。
「アイツらにこれ見せたら、卒倒するか反乱が起きるかだろうな・・・」
潮が視線を落とした写真には、橘―直江の肩口から顔を覗かせる高耶の顔が映っていた。


「高耶さん」
報告書に目を通しながら廊下を歩いていた高耶の後ろから、声をかけたのは直江だった。
「・・・なんだ」
高耶は振り向きもせず、低い声を出した。
「さきほどの件で。貴方を個別に警護する班を編成した方がいいのではありませんか」
「何?」
「貴方の作戦は、伏兵に人員を割き過ぎている。少しは自分の立場というものを弁えて下さい」
直江がそこまで云うと、高耶はやっと振り向いて報告書の束を叩いた。
「俺のためだけに貴重な人員を減らすことなど出来ない」
「貴方を頼りとする隊士たちのためでもあります。それに、全体数は変わらないでしょう?」
「攻撃の主力が前に出ないでどうする。俺は義父上に教わったことを実践しているだけだ」
「まだ貴方は謙信公の義のために生きているのですか?」

パシッ。
直江の右頬に、高耶の右手が振られた。
報告書の束で直江の頬を叩いたのだ。

「それ以上口にするな。もう決めたことだ」
「高耶さん・・・!」

直江が高耶に組みかかろうとした瞬間、

「おーい、今痛そうな音がしたけど大丈夫かー?」
そう云って高耶の後ろから小走りに駆け寄って来たのは楢崎だった。
「おい、仰木・・・と、橘・・・!」
直江の左頬が真っ赤になっているのを見て、楢崎は心の中で
(マズイ)
と激しく後悔した。
(これじゃあ痴情の縺れに割り込んだ邪魔者じゃねぇかよ)
「あー、なんでも無いみたいだな。じゃ俺行くわ」
2人の顔もまともに見られないまま、楢崎はその場から遁走した。


「た、助かった・・・」
以前、2人の濡れ場を目撃してしまった楢崎である。
下手に近くにいて、直江の怒りを買っても困る。
廊下の隅で一息吐いていると、平隊士の一団がわらわらと歩いて来た。

「おー、楢崎ここにおったか」
「どうしたんだお前ら」
「いや、ちょっと隊長と橘のことで聞きたいことがあって・・・」
「何で!」
思わず一番聞かれたくないことを聞かれて狼狽える楢崎の後ろに、
隊士たちは2人の姿を見つけた。
「あれ、隊長と橘じゃ。それに橘の顔、右の方が赤いような」
「なっ、なんで見えるんだよお前」
「昔から山男と海男は目がいいと決まっちょろうが。それよりおんし、橘の頬が赤い理由を知っちょるようじゃな」

しまった。
自ら墓穴を掘る男・楢崎。
彼は咄嗟に閃いた理由を隊士たちに告げた。
「あ、あれは橘の頬に蚊が止まっていて、仰木がそれを叩いて殺したんだよ」
「ほう、随分と強く叩いたもんじゃなあ」
不審がる隊士に楢崎は、
「き、季節外れの珍しい蚊だったからばい菌とかのこと考えて、思わず力が入ったんじゃないか?」
(うわぁ、こんなんじゃバレバレじゃんかよ俺!)
「流石は隊長じゃ。自分事ではないのに、優しい心遣いじゃのう」
「まっことまこと」
(な、納得してる・・・)
ホッと一息つきつつ、隊士たちの鈍さと馬鹿さに感謝する楢崎だった。

一方、高耶と直江は―――。

「貴方が私を撲ったお陰で隊士たちが騒ぎ始めたようですよ」
高耶の背後の廊下に目を遣りながら、直江は口の端をつり上げた。
「そういうのは『お陰』って言わねぇだろ、この策士が」
憮然とした態度で、高耶は直江の横をすり抜けつつ
「変に勘ぐられたら困る。俺の部屋に来い」
と小さな声で呟いた。
高耶の言葉に、直江は微かに笑みをこぼして高耶の後に続いた。





高耶の部屋は、雑然としていた。
目を通さねばならない書類の山。
丁寧に畳まれた洗濯物の山。
ふと直江は、机やベッドの上に置かれた見慣れぬ物に眉を顰めた。
「お前と言い争いをしていたはずなのに、何だか気が削がれたな。・・・どうした」
直江の視線が自分に無いことを見て取った高耶は、その先にある物に目を遣ると困ったように笑った。
一見私物と見てとれるそれらは、高耶固有のものであれば直江も訝しく思わなかったかもしれない。
だが、実際はそうでは無かったのだ。
「その菓子類は卯太郎、歴史小説は嶺次郎、写真集は潮だ」
「・・・・・・」
「息抜きにどうか、って。アイツらなりに気を遣ってくれてるんだろう」

苦笑しつつも照れたような笑みを見せる高耶に、直江は胸の痛みを覚えた。
一つは高耶が想像以上に激務を続けていること。
一つは、・・・隊士たちに事の他慕われているということ。
特に後者は直江にとって複雑な感情を呼び覚ますものだった。

彼ほどの人間が、慕われないはずがない。
彼ほどの人間を、ほかの誰にも触れさせたくない。
常にそばに居られる存在でいなくては。
さしずめ、彼の一番の常備薬となれるように―。

「直江?」
黙ったままの直江の顔を覗き込んだ瞬間、高耶は厚い胸板に抱き寄せられていた。
「なお、・・・っ」
激しく唇を吸われて、息を着く暇もなく高耶は激流に飲み込まれた。
細いが、しかしほどよく筋肉のついた長い腕をベッドに縫い付けられ、高耶は何度も何度も喘いだ。
直江はただひたすら、高耶の瞳を見つめていた。
怒気を含んだその瞳を。
潤んだ目を見せまいと力を込めるその瞳を。
ふとした隙に緩む、悲しげなその瞳を―。
幾度となく果てた2人は、どちらともなく背中に腕を回しあって浅い眠りについた。


「・・・おい」
背後からかけられた高耶の声に振り返った直江は、その最愛の人の顔をマジマジと見つめた。
孤高すら感じさせる鋼の肉体。
だが今は赤く色づいている。
「直江、聞いてんのか」
「ええ、ちゃんと聞いていますよ」
自分でも信じられないくらい穏やかな笑みを浮かべて、直江は高耶を抱き寄せた。

「・・・何かあったのか?」
上目遣いに見上げた直江は、いつも以上に翳りがあるような気がした。
ただでさえ、休むことを知らない男だ。
高耶は、途端に不安になってその胸に頬を寄せた。
トクン、トクン。
大丈夫、ちゃんと生きて俺のそばに居る―。
その低い声も、長い指も、鳶色の瞳も、全ては自分のものだ。

「相変わらず言葉だけでは足りない男だなお前は」
意地悪そうな笑みを浮かべてそう云った高耶に、直江は諸手を挙げて降参した。
「ええ、貴方の魅力の前では口より先に手が出てしまうようです」
「・・・たまにならいい。それに、優越感を感じているのはお前だけじゃないしな」
「今なんと?」
「・・・一度しか云わない」
起きざまそう言い放って、高耶は衣服を身にまといながらベッドに寝転んだままの大男を振り返った。
「・・・先ほどの件は再検討しておく。用が済んだのなら持ち場へ戻れ」
「相変わらず素直じゃないですね」
ふ、と笑みを漏らした直江はほどなくして高耶の部屋を後にした。


「おう、橘。随分遅かったな」
高耶の部屋から持ち場へ戻る途中、直江は潮に呼び止められた。
訳知り顔の潮を一瞥して、直江は満足そうな笑みだけを返した。
「おーお、嬉しそうな顔しちゃって」
見送った潮は半ば呆れた顔でその後姿を見送った。

後日―。

「仰木隊長!首筋んところ、蚊に刺されたがか?」
「あ、橘も刺されちょるぞ」
会議後の席で、隊士たちが議論する高耶と直江の間に入って話を始めた。
「ああ、この間隊長が親切にも俺の周りを飛んでいた蚊を叩いてくれたんだが・・・。
結局2人とも刺されてしまったようだな」
いつもより幾分和やかな口調で橘義明が答えると、隊士たちは
「おんしらは蚊に刺されたくらいでそんなに赤くなるんか。軟弱者じゃ」
と云って笑い飛ばすのだった。
直江の隣で、高耶は咎めるような視線を送っていたが当の直江は平然としている。
そしてまた、隊士たちの影で楢崎が真っ青になっていたのだった。


「おい、あまり勘繰られるようなことは云うな」
「おや?高耶さんには勘繰られて困るようなことでもあるんですか?」
「お前・・・」

なんだかんだと、今日も平和な赤鯨衆でありました。

<了>

2004.2.23



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