寛仁二年 神無月十六日乙巳
平安京・土御門邸
「実資殿。今宵は我が娘・威子がめでたく中宮となった祝いの席。我らが藤原一門の繁栄を祝う席でもある。 娘だけがもてはやされては息子が拗ねるのでな。ここは一つ、頼にも一献注いで下さらぬか」 献盃をしながら宴席を回っていた道長は、慇懃無礼な態度でそう言い放った。 「・・・では一献」 それ以上は言わず、実資は我が子以上に年の差のある「藤原の跡継ぎ」に酒を注いだ。 とはいえ実資は、道長に対するほどには頼通を疎ましく思ってはいない。 同世代の一門と思えばこそ道長は疎ましいのであって、親子ほどの年の差のある道長の息子に対しては 愛着を持っているという感情の方が勝っている。 頼通もそれは感じているらしく、実資を実の父親以上に慕っていた。 藤原実資。 世に「賢人右府」と呼ばれる人である。 小野宮流の流れを受け継ぎ、莫大な財産と有職故実に関する知識を持ち併せていた。 政治家としての気骨と才能を兼ね備えていたが、道長政権に対して批判をした唯1人の人でもあった。 「叔父上から頂いた一献。私めは左大臣様にお注ぎ致しましょう」 恭しく実資から盃を頂いた頼通は、左大臣・藤原顕光へと杯を回した。 「では・・・矢張りここは一の人たる大殿に」 「これは忝ない」 口ほどには申し訳ないという表情をしていない。 道長にとってこの盃は当然のものであるからだ。 「実資殿。ささ、受けられよ」 実資から頼通へ、頼通から顕光へ、そして顕光から道長へと注がれた盃は道長の手によって再び実資の元へと戻ってきた。 (まわりくどい) 実資はそう思ったが、いつものように心の裡だけに留めた。 「嬉しいかな」 実資に酒を注ぎながら、道長はある男と視線を酌み交わしていた。 男は宴席の中で一人、禮酒を飲んでいる。 その男から視線を外すと、道長は再び実資に申し出た。 「この今日の良き日の思いを、歌に露そうと思うのだが。受けて下されような?」 有無を言わせぬ物言い。 「しかと承りましょう」 意を受けた実資の言に頷くと、道長はすくと立ち上がって縁から見える月を見上げて口を開いた。 「この世をばわが世とぞ思う」 宴に酔いしれた観衆に静寂が訪れる。 その男だけが、静かに盃を口に運んだ。 あの・・・ 「望月の欠けたることをなしと思えば」 実資は絶句した。 その場に居た者全てが耳を疑った。 しかし、その歌に反論出来る者は誰1人として存在しなかった。 「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることを なしと思えば」 欠けたることをなしと思えば・・・ 「少しやり過ぎたかもしれぬな」 その男は1人呟いて、微かに笑った。 |
月が皓々と夜空を照らしている。 ひょっとすると、煌々と光る月の後ろに空が暗幕を引いたのかもしれない。 そう思わせる程の名月だった。 十六夜である。 真の望月とも人は言う。 望月は満ち足り過ぎていて面白味に欠ける。 だが十六夜月は満ち足りず、欠け過ぎず。常に中性的。 ここに男が一人いる。 その男も、この情緒ある月が好きだった。 その名を藤原公任という。 名門・藤原一族の中でも傑出した人物として名を残す人物である。 祖父実頼、父頼忠と二代に渡って関白職を務め上げた家柄の出身ではあるが、その身は権大納言であった。 公任は、宴席を離れ母屋の縁側に来ていた。 母屋とは、寝殿にある居室のことである。 「ちと遣りすぎであったかのう?」 公任の元に男がやってきてそう言った。 「遣りすぎたかもしれんな」 公任はその男ー道長にそう答えた。 宴もたけなわで、止まることを知らない。 道長の詠んだ歌は、一層宴を盛り上げた。 返歌を求められた実資は、道長のあまりの傲岸不遜さに呆れかえり返歌する代わりに 「皆でこの素晴らしい歌を復誦しようではないか」 と言って場を繕ったのだった。 「あの歌を詠めと言ったのはそちでは無かったか?」 「貴方にはあれぐらいで丁度良いのですよ」 「ならば後悔させるようなことは言うな」 道長は笑って公任の横に腰を下ろした。 「宴の主人がこんなところへ来ていて良いのか」 「顕光の馬鹿と、頼通がいるから大事ないだろう」 「至愚之又至愚也の顕光殿か?」 「公任・・・お前存外に口が悪いな」 「貴方がそう言ったのだ」 至愚之又至愚也、とはつまるところ「馬鹿の大馬鹿」という意味である。 左大臣・藤原顕光は王朝第一の愚人と言われるほどの無能と言われる。 政治的にはそのあだ名の通り暗愚の極みであったが、 後宮政策では娘を天皇や皇族の后としている。 「あまり顕光殿を馬鹿にしてはいかんぞ。あれでも貴方の従兄殿なのだから」 「従兄殿といえば、お前の優秀な従兄殿も顕光を批判しておられたからなあ。 実資は『出仕の日から大臣になった今日まで、万人に嘲笑され続けている』 とまで言ったそうだぞ」 「・・・話をすり替えたな。顕光殿は、貴方に対して悪意を抱いている人物の1人なのですから気をつけろ、と言っているのだ。 ああいう根に持つタイプは祟るぞ」 「分かった分かった。気をつけるとしよう」 公任の予言した通り、後に藤原顕光は「悪霊の左府」として道長の娘を悉く祟ることになる。 「時に公任。月ばかり愛でていないで、わしの相手をしてくれぬか」 「貴方の相手なら先ほどからしている」 公任は中天に達した月を見て目を細めた。 「御酒を持て」 道長は手を叩いて、側仕えの者に命じた。 「頑ななお前を口説くには、酒で釣るしかなさそうだからな」 母屋へ上がれ、と道長が促すと公任は眉根を寄せ、渋々といった表情で立ち上がった。 「頼光から贈られたという調度品を見せてくれるならば」 「相変わらずそういったものには目が無いと見えるな」 呆れたように言う道長に、公任は憮然として答える。 「単に、貴方が無粋なだけだ」 月影をさえぎらぬように掲げられた御簾をくぐりながら、公任は見事な唐紙屏風の前に座し、脇息に右半身を預けた。 「この菊灯台一つとっても、漆が重ね塗りしてある。見事なものだ」 そうやって公任は、暫く月と高燈台のあかりを頼りに調度品に目をやっていたが 道長が瓶子を傾けて来たので、そこから流れ出る御酒を杯で受け止めた。 「美酒を厭うては、雅男の名が泣くぞ?」 一気に盃を飲み干した公任を横目で見ると、道長は満足そうにほくそえんだ。 「その様子だと、実資殿のなされたことの真意に気づいておられぬようだな」 悔し交じりに公任が反撃を仕掛けた。 当の道長は、それを知ってか知らないでか、全く気にした素振りを見せない。 「はて?右大将が何と?」 「・・・貴方はそうやって素知らぬ振りを決め込むのが宜しかろう」 公任も口の端で笑って、酒のつまみにはなりそうもない三梅枝を齧った。 実資の真意とは―――こうである。 道長の、所謂「望月の歌」への返歌をただ断るのでは面目が立たない。 下手な歌を返すよりは、と皆で道長の歌を復唱して事なきを得たのである。 これは、唐土の詩人・元モフ作った菊の詩に、白楽天が感嘆のあまり返歌出来ず 終日、元モフ歌を吟詠した―という故事によるものである。 道長の常軌を逸した歌への応対としては、いささか追従のきらいが無いでもない。 果たして酔いの回った頭で、幾人の公達が理解し得ることが出来たであろう―。 「不器用なりに、世渡りは器用にこなす辺りが実資殿らしい」 公任がポツリとこぼした言葉に、道長は耳ざとく反応を示す。 「そういうお前こそ、相当な策士ではないか。いつぞやは、わざわざわしに歌まで詠ませおって」 手酌をしかけた道長の瓶子を横から奪い取ると、公任は自分の盃に波波と酒を注いだ。 (変に気位が高くて、控えめかと思えば出世欲の強い男よ) 「いや、案外嫉妬―してくれているのかもしれんな」 道長は心の中で呟いたつもりだったが、思わず口に出てしまった。 「ところで、帝の土御門行幸の際の装束は如何いたそう」 ギロリ、と横目で睨んで来る公任をかわそうと、道長は話題転換をはかった。 公任は軽くため息を吐いている。 「そのようなことは、家司殿にでもご相談なさい」 「そなたの有職故実の知識をもって、ご教授願いたいのだが」 道長がわざと恭しい言葉を使うときは、大抵公任が先に折れることになる。 「・・・では、永延の御時に一条帝が東三条殿に行幸された時のことは覚えているか」 「勿論だとも。季節もちょうどこんな頃で、あの時は父上が―ああ、そういうことか」 「そういうことだ」 先例を重んじるのが儀式の基本。 道長には亡き父・兼家が召した装束と同じようにせよ、と言ったのである。 「むう、確かあの時は赤の袍に・・・」 「白橡の表衣、蒲葡染の下襲、紫浮紋表袴に瑪瑙の帯でよかろう」 「お前、そのようなことまで記憶しておるのか?」 公任が、息子の自分でさえ記憶していない30年近くも前のことをスラスラと云うので 道長は目を白黒させた。 「はは、流石の私もそこまで記憶しておりませぬ。ただ、父からよく聞かされたのと 物には決まりがある、という事から推測したまでですよ」 呆れた奴だ―と、道長は思いつつも脳裏の片隅に公任の言った装束を書きとめた。 ふいに、胸に激痛が走った― 「・・・っ」 思わず前のめりになる。 「そういえば鈴の奏の段取りにはな、斉信たちが・・・どうした道長」 月明かりにも、一層冴えて道長の顔が蒼く見える。 「・・・また胸の痛みが酷いのか」 眉根を寄せて、公任は身体を起こしてそのまま道長の背をさすった。 「熱があるなら、紅雪を持って来させるが」 道長は拳で何度か胸元を叩くと、起き上がって頭を振った。 「薬は過剰に服用しても毒にしかならぬよ」 「・・・仏にすがるしかない、か?」 先ほどまで宴の席で冗談を飛ばしていた男と同一人物とは思えないほど憔悴している。 道長の病は、先の帝―三条天皇の祟りだという噂が流れている。 三条天皇を退位に追い込み、春宮であった敦明親王―小一条院をもその座から追放した。 確かに祟りがあると噂されても仕方が無いことだが、その恩恵に預かっている者までが賛同する資格が奈辺にあろう。 満ちた月はいつしか欠け、闇に還る― だが望月が新月になるにはまだ早いのだ。 齢50を越えた同年の男の横顔を見つめながら、公任は己の横顔の皺を思って月を仰いだ―――。 「月は欠けるもの―矢張りお前もそう思うか公任」 乱れた呼吸を整えると、道長は改めて公任に向き直った。 気付けのためか、手酌で御酒を一杯口に含む。 公任はただ、月を見上げたまま微笑していた。 「そうだな・・・水は反る夕なし、と言うだろう。それと同じで満ち行くものはいずれ欠ける。 だが、日は沈んでも再び昇るように天地の流れと言うものは常に流転しているものだ。 満ちたものは欠ける。欠けたのはまた満つる。ただその繰り返しがあるのみだ。我らが どうあがいたところで、変わるものなど些細なことしかあるまい」 酒で口が滑らかになったのか、公任は淘々と言葉を紡ぐ。 口調を改めないのは酔っている証拠である。 (酔っていた方が或いは、本音が聞けるのやもしれぬな) 公任の横顔を見つめながら、道長は公任の言葉に耳を傾ける。 「酔ひて落花に対へば心自ずから静かなり 眠りて余算を思へば涙先づ紅なり・・・ 余命幾ばくか、我らの思惑など過ぎ行くときの前では不善にしかならぬのさ。 『道は長きもの』と貴方に諭されてからは、私も齷齪するのが馬鹿馬鹿しくなった。 行成殿のような御仁も居ることだ。貴方の行く末は貴方がお決めなさい。 子息の世代は当事者に任せるのがよろしかろう。後先ばかり考えていては、己を追い詰めるだけだ」 ほろ酔い顔の公任は、また一杯口に運ぶ。 「お前の人生観が聴けるとは思わなかったな。だがな公任、あまりわしをかどわかしてくれるな。 ただでさえ頼通と教通のことで、世俗への妄念捨てがたいというに・・・」 道長の言葉に、思わず公任は表情を硬くした。 「まさか道長」 「そのまさかだ」 若い頃と変わらぬ不敵な笑みを浮べた道長は、公任をジッと見つめ返す。 「貴方はいつも私を驚かせるのだな」 「それが老い先短いわしの唯一の愉しみだ」 「戯れを」 公任は口の端で笑うと一句詠みあげた。 同じ年 契りしあれば 君が着る のりの衣をたちおくれめや 「わしに追従するのはほどほどにしろ。お前まで離俗をしたら小野宮が嘆くぞ」 「実資殿こそ、早く出家しろと言いたいのでしょう?」 公任はすっかり酔いが冷めてしまったらしく、何故か沈痛な面持ちでいる。 「・・・結局、貴方はいつも私をおいていかれる」 目頭が熱くなるのを感じながら、公任は漠然とした不安を覚えた。 さきほど「酔ひて落花に対へば心自ずから静かなり」と言ったばかりだというのに。 くぐもった声の公任に、道長は思わず苦笑した。 (こやつも結局俺などに諭されてはいないのだ) ふと手元に手を落とすと、軽く指を添えて持っているだけの盃が震えていた。 酒の水面に映った月は、その輪郭を現すことなくゆらめいている。 「お前は、矢張り月に似ているな」 いつか目の前の男に言った言葉を思いだす。 公任の掴み所のなさというのは、水にたゆとう月に似ている。 道長は常々そう思ってきた。 使い古された喩えかもしれないが、一番しっくり来るのも確かだった。 「結局、我らは互いに相容れぬままだったのかもしれんな」 お前が歩み寄ってくれぬのだから。 そう付け加えた道長はいつになく老けて見えた。 「憎まれ口を仰るな」 いつも剛毅な道長の弱い部分をさらけ出されると、公任の毒舌も効力を発揮しなくなる。 形だけの、追従と思われていたのだろうか。 道長の告白に公任にも迷いが生じた。 「年だけ重ねて、つまるところ・・・」 「何ら変化を遂げていない。そうだろう?」 公任の言葉を遮るようにして言ってのけた道長は盃を置くと、自分の手の平を 公任に向かって開いてみせた。 「どうだ?皺ばかり増えた。お前もわしと大差なかろう。 染みで黄ばみまで見えてきた。これでもまだ、わしは生きねばならんと言うのか?」 頬を上気させる道長を見て、公任は胸が痛んだ。 「それでも・・・貴方が必要なのですよ」 我ながら酷なことを言う。 そしてまた自分に対しても、酷でなければならないのだ。 「だから私も貴方の後は追わない」 きっぱりと言い切った公任の、その決意に満ちた瞳を見ると道長は肩の力を抜いた。 「なんだかんだ言って、打たれ強いのはお前の方か」 道長は、幾分呆れたように呟いてみせる。 病が篤くなるにつけて出家の願望が高まっていた。 だが公任も、同じ思いを乗り越えてきたに違いない。 「人間、一度死にかけると打たれ強くなるのですよ」 そう言って笑った公任の顔を、道長はしばらく忘れることが出来なかった。 この宴の翌年、寛仁三年。 道長は出家を果たし行覚となる―。 2003.6.18 |
月の素材は「月世界への招待」様からいただきました |