「濡れ縁」




遅咲きの桜もすっかり新緑になり、早く訪れた梅雨に似た雨がしつこく降り続いていた。
京の町では、春雨程度では番傘も必要ないが今日の雨はちゃんと粒になっている。

「おっせえな、あいつら」

いつもの場所―虎公の今の宿体の屋敷にある縁側―で手酌をしながら一人ごちてみる。
この縁側からは、毎年見事な紫陽花が拝めるのだが今年はまだ咲く気配を見せない。
最近、暇な時間を見つけてはこの縁側に来るのが日課になっている。
景虎の顔を見なきゃいけないのはちょっと気に食わないところだが、どうにも落ち着く場所だから仕方が無い。
瓦版屋兼、よろず屋などという慌しい仕事をしていると長屋の回りに落ち着ける場所がないのだ。

二口目の猪口を口に運ぼうとすると裏口が
「カタン」
と鳴った。

おもむろに目をやると、黒い同心羽織を着た直江が立っていた。
全身ズブ濡れに近い状態で、袴の裾には泥が飛び散っている。

「お前にしては遅かったな」

視線を手元に戻して声をかけると、直江はこちらへ歩み寄りながら

「鴨川に仏が上がったんだ」
「ドザエモンか?」
「まあ、そんなところだ」

表情一つ変えずに、直江は濡れたまま軒下に立ったままで座ろうとしない。

「ま、明日の版の候補にさせて貰うから後で詳しく教えろよ」

言いざま直江の方へ自分の首に巻いていた手ぬぐいを放り投げた。

「そのままじゃ俺様の隣に座らせる訳にはいかねぇからな。それ、ちゃんと洗って返せよ」

川水じゃなくて井戸水でな、と念を押してまた庭に目をやった。
直江はどうやら、肩より袴の泥を先に拭いているらしい。
・・・洗って返してくれるなら別にいいんだが、目の前で気に入りの手ぬぐいを汚されると好い気はしない。
ったく、遠慮ってもんが無い奴だな。

あらかた身体を拭き終わった直江が、横に座った。
予め用意しておいた猪口を渡して酌をしてやろうとすると、徳利ごと取られた。

「ちっ」

思わず舌を鳴らしてしまう。

「それより長秀。景虎様はどうされている」

口を開けば「景虎様」だ。

「虎公なら、この長雨で寝込んでるらしいぜ」
「それは知っている。容態の方はどうか、と聞いているのだ」
「そんなに気になるんなら、寝所にでも行けばいいだろう?」

本当は、さっき起き上がってきた景虎と二言三言、近況報告をし合ったばかりだったが。
直江の表情の変化を見てみたかったので、ちょっとばかりカマをかけたのだ。

「・・・では、後ほど自分で会いに行くとしよう」

そうそう、最初から素直になりゃいいんだよ、ったく。

「晴家の奴、おせぇな」
話題をそらそうとして、なかなか現れないもう一人の名を出してみる。
「修理之進・・・じゃなかった色部のとっつぁんは公務があるんだったよな?」
「ああ。・・・晴家はたぶん、墓参りだろう」

墓参り・・・?ああ、そういえば・・・

「慎太郎の命日か」

慎太郎が流行り病で死んでから、晴家は本当に女になってしまったのではないかと言うくらい甲斐甲斐しく
なっていた。

「惚れると人間、そこまでするものかねぇ」

そう言うと、もう三口ばかり呑んでいた直江が怪訝な顔をした。

「惚れた相手でなくとも墓参りくらいは行くだろう?」
「墓参りなんて自己満足の為じゃねえのか?でなきゃ、自分もして欲しいからするんだなきっと」

自分なりの解釈をしてはみたものの、存外しっくり来ない。
命日なんてものを気にしたこともないし、その存在意義なんて考えてみたこともなかったからだ。
大体そんな面倒なもの、誰が好き好んでするものか。

「自分がして欲しい、か。確かにそれは一理あるかもしれんな」

思わず直江の方を見た。
この男がそんな反応を見せるとは思わなかったのだ。
空になった猪口を手の中で転がしながら、直江は口の端を少しだけ吊り上げた。
こいつの悪い癖―自嘲癖―だ。

「そういえば、お前の命日もそろそろじゃなかったか?」
「はぁ?」

突拍子もないことを言われたので、思わず徳利を取り落としそうになった。

「俺の命日が、なんだって?」

まだちょっと咽こんでしまう。
一体何なのだこの男は―――。

「いや、お主の怨霊には苦労させられた覚えがあるのでな」
「そんな200年近くも前のことを言われてもなあ?」

そうか、俺の命日か―――。
あの時は、毒殺された悔しさでいっぱいだった。
手ぬかった。
いつもの自分ならそのような仕掛けに気づかぬはずがない。
年を感じていた。
謙信公が死に、景勝が実城となってから急進派が脇を固め古参の人間は実質上の力を奪われた。
死を覚悟せずして、戦場に行くことは一度たりとて無かったが。
戦って武人の本懐を遂げるのならまだしも、あのような形で死ぬとは。
・・・それよりも、毒死したことを気にしていた自分はなんと小さい男だったのかと。
そう思った。

「お前は、墓参りされたいクチか?」
直江は俺の問いに暫く沈黙していたが、フッと表情を和らげてこちらを向いた。

「墓参りも一つの形であって、見えない思いを表すものかもしれないが・・・私としては景虎様を含め、お前たちの誰かが
記憶してくれていれば―それでいい。お前が先ほど言ったように、要は『忘れられたくない』が為に人の墓参りをするんだろう。
自分が誰かの墓参りをすることで、周囲の人間や子供に『自分が死んだら同じことをしてくれ』と暗に言っているのではないか?
ならば、私はもし自分が先に浄化するときが来たならばお前くらいには自分が生きていたことを覚えていて貰いたい。
そうは思わないか?」

「・・・・・・そうだな、じゃあ仕方ねぇから覚えておいてやるよ。だからお前も覚えておけよ―」

俺が居たことを―。
まだ判然とはしなかったが、とりあえずはこれでいいと思った。
きっと答えなどは生き続ける限り出るものではないし、出そうと思ってもあがくだけだろう。
自分の子孫は江戸方でなんとかやつているという話を風の噂で耳にしたが、おそらくもう俺の名を知るものは皆無だろう。
多くの人間―とりわけ肉親(と呼べるかどうか)に覚えていてもらわなくとも、
同じときを生きた人間に覚えておいて貰えばそれでいいのだろう。
さしあたり、直江や景虎たちとは長い付き合いになりそうなのだから―――。

「お前の方が長生きしそうだから、私の約束は意味をなさんかもしれんかがな」
苦笑交じりに直江が嘯いてみせる。
「ばーろー、俺はこう見えても繊細なんだよ」

自然に差し出した徳利からこぼれる酒を、今度は猪口で受け止められた。
直江の心境にも何か変化が起きたのかもしれなかった。

「さしずめ、移ろう季節をこの濡れ縁から見届けるとするか」

酒のつまみをその日初めて口にしてみた。
なかなかイケる、と思った。

隣の男も、同じように抓み始めた。
そう、この今が―――悪くないんじゃねぇの?



2003/4/12


<<back