『濡れ縁』―宵闇

夜の雨は粒音がよく聞こえる。
人の吐息も寝息も、衣擦れの音も―――。
全てが静寂を背景として、真の姿をさらす。
昼間の喧騒ですら飲み込まれてしまったかのような。
そんな夜だった。


「失礼仕る―」
縁側の男は一声、障子の向こう側にいる主人に自分の来訪を告げた。
返事は―ない。
ただ、
スルリ
と衣擦れの音がしたことで、男は自分の主が起きていることを悟った。
無言で障子を開けて中へ入る。

「お加減の方は如何ですか」
男が尋ねると、景虎は布団から半身を起こしてその男―直江を見遣った。
咄嗟に半身を起こしたので、額の手ぬぐいが肩口へ落ちる。

「お気遣いは無用です。まだ熱があるのでしょう?」
直江は布団近くに歩み寄ると、腰を落して落ちた手ぬぐいを拾った。
景虎の枕もとにある木桶の水に浸して固く絞る。

「横に・・・なって下さい」
熱で潤んだ瞳を一瞬、直江の手元にやって景虎は大人しく床についた。
直江は景虎の額に、冷たくなった手ぬぐいを乗せる。
と、同時に手首を掴まれた。

「どうされました」
驚いて景虎を見遣った直江は、心の不審な動きを悟られぬように努めて無表情を装った。
「・・・の匂いがする」
景虎は香りの出所を探して、枕もとの小さな灯りを頼りに直江の腰あたりを見た。
脇差の側に、何か挿さっている―――。
「―庭先に咲いていたのを一房頂いてきたのです」
直江は腰を落ち着けて正座をすると、腰に挿していた藤の花を抜くと景虎の顔の側に置いた。

肩を少し上げて景虎は、目の前の藤に手を伸ばした。
「もう咲いていたんだな・・・。障子一枚隔てただけなのに、気づかなかった」
薄く口元で笑うと、景虎は軽く目を閉じて花の芳香を味わう。
直江はそんな様子をずっと見ていたが、ふと口を開いて何か言おうとしたその瞬間、
障子の隙間風が小さな突風を起こして枕もとの灯りを消した。

二人は呼吸さえも止めてしまったかのように微動だにしなかった。
「火を取りにいく」
と一言言って、この場から立ち去ることも直江には可能であるのだが暗闇の中で何かを
感じ取りたかった。
側に居る景虎のぬくもりを。その吐息を。その、心を―――。

「直江・・・」
ふいに名を呼ばれて、身体がビクリ、と反応した。
景虎の手が、自分の手の甲に触れている。
暗闇に目を凝らすと、景虎の、その強烈なほどの光を湛えた瞳にぶつかった。
おそらく、自分の方を見ている―――。

「景虎さま・・・」
額に汗がうっすらと浮かんでくる。
このままでは、危うい―。



「花びらが」
言いざま、景虎は直江の手を掴み自分の口元へと誘導した。
しっとりと熱を持った、それでいて厚い景虎の唇に直江の指が触れる。
下唇に一枚、藤の花弁が張り付いている。
直江は、景虎の手が添えられたままの手で花弁を撫ぜた。
薄い花弁は、捩れて剥がれ落ちた。

花弁が取れた後も、二人は暫くその姿勢のままだったが
ふいに、直江は景虎の唇に触れた指で顎を掴むとそのまま己が唇を近づけた。
熱い吐息を柔らかく啄ばむと、ゆっくりと景虎から身を離した。
気が付くと、障子の向こうからは月光が差し込んで来ていた。
雨もいつの間にか止み、雲間から月が顔を出したようだ。

月明かりが差し込む方を見遣って直江は胸元で、固く拳を握りしめた。
「雨が、止んだようですね」
そういうと、景虎は月が見たいと呟いた。
直江が、たち上がって障子を開けると眩しいほどの月明かりが降って来た。
振り向いた直江は、月光に白く浮かび上がった景虎の首筋に目を奪われた。
胸の痛みと、身体の熱を感じつつ直江は自分の唇に人差し指で触れてみた。

藤の香りと、そして―景虎の熱。
先ほどの行為が現実であった証しをはきっりと感じとれるものだった。
そう思った瞬間、焦りを感じて直江は
「それでは、そろそろお暇致します」
と言って濡れ縁へ出ようとした。
「お大事に、なさって下さい―」
そう言いながら、後ろ手に障子を閉めようとする直江を
「直江」
と景虎が呼び止めた。

「せっかくの名月だ。もう少し相手をしていけ」
景虎の目は、真っ直ぐ直江を射抜いている。
(この人は・・・)
直江は俯き加減で下唇を噛んだ。
いつまでこの誘惑に耐え切れるのだろうか―。

「御意」
と答えて再度障子を開ける直江を見る景虎の口元は、微かに微笑を湛えていた―――。


2003.4.21

<<back