あなたが、
告げるのならば、
死すら受け入れよう。
でも
残酷なようでいて
どこかやさしいあなたは
私の死をたびたび後悔するだろう。
あなたの心に疵を残すこと。
それが私の、最後の願い―――。
あなたの心を抱き、私は深い淵に沈む。
薄氷
夜も更け、板張りの室は深深と冷え込んできた。
時折、ガタっガタっと風で戸の軋む音がする。
雪でも降るのだろうか。
(もう如月も終わりだというのに――――)
如月というのは、長く厳しい冬を耐え忍んできた草木がようやく甦るからこそ「如月」―生更ぎというのではないのか。
ふと、今の状況にそぐわない思いに捕らわれる。
(それもこいつが―――)
自分の気を散らす原因を尊氏は改めて見据える。
視線の先には、弟が、いる。
微かな蝋燭の明かりに照らされる弟の白い貌は、この身に染みる寒さよりも冷たく見える。
そして弟は、―――微笑んでいた。
何故そこで笑えるのかがわからない。
「直義――わかっているのか。俺はおまえに・・・・・・・・」
この先を続けることができない尊氏は、言葉を途切れさせる。
自分は今、この弟に。
俺は
おまえに
死んでほしい、と―――――。
そう言ったのだ。確かに。
するとこの弟は―――――笑ったのだ。
弟のよく浮かべる皮肉な笑みとはちがう。
ただ本当に、幸いを、噛みしめるかのように笑ったのだ。
「兄上こそ私が何を考えているのかわかりますか」
ひっそりとした声が薄い唇から零れる。
「わかるわけが・・・ないだろうが。ここまで俺に楯突いてきたおまえだぞ。おまえが何を考えているかなんて――――」
直義はまっすぐに尊氏を見つめた。しかし、その視線を受け止めることができず、尊氏は膝先の板目を目をやる。
ふいに、使われないまま忘れ去られた盃が視界に入る。
そんな兄を見遣って、ぽつりと直義は呟きを落とした。
「望みが叶ったんですよ」
思いがけない言葉に顔をあげた尊氏は、直義の強い視線とぶつかってしまう。
「望み・・・・?」
「そう。兄上から死を宣告されることが、私の望みだったんです」
「直義・・・おまえ・・・・・・」
首を傾け、微かに直義は笑った。
どこか疲れているかのような表情だった。
「それなら、何故早いうちに大人しく投降していなかったんだと、兄上はお思いでしょう?」
この長引く騒擾で大勢の人間が死んだ。自分たちに近しい人物も犠牲となった。
彼らを死なせたのは、自分たち兄弟なのだ。
尊氏と同じことに思い至っているのか、直義は一度目を伏せた。
「何もかもわからなくなったんです。誰を信じるべきか、自分自身も信じられるのか」
兄上は気づいていたはず。
直義はそう続けた。
「幼い頃から、私には兄上だけがすべてだった。だけど、そんな自分が怖くもあった」
この鎌倉で、足利庄で、二人で駆け回った遠い日々を、ふいに尊氏は思い出す。
自分と一つしか違わないこの弟は、いつも自分をじっと見つめ、自分の後をついてきた。
長じてからも、傍らには必ず弟がいた。
しかし思い返せば、いつからか弟の素直な笑い声を聞いていない。
目に浮かぶのは、何かを押し殺すかのような耐えているかのような表情である。
「俺は、おまえにはずっと助けられていた―――。ただおまえの兄であるということだけで、おまえに甘えきって苦労ばかりかけていた」
擦れた声で言葉を紡ぐ尊氏に、直義は首を静かに振る。
「それだけで私は幸せでした。あなたに必要とされていたいと思っていたから。でも・・・それ以上に私があなたを必要としていたことに気づいた・・・・・・。
以来私にとっては、あなたに排除されることが一番の恐怖になった」
どうして、これほどまでに自分は兄を追い求めてしまうのか。
何度も何度も自分の内へと問い掛けた。
そして、いつかはその気持ちも薄れ、他へと向けられるだろうと考えたりもした。
しかし、自分の気持ちは幾年を経ても変わりはしなかった。
兄の傍らに在るためには、息を殺すかのようにこの感情を秘めていなければならなかった。
そんな弟の気持ちを知っているのか、知らないのか。
兄は自分を試すかのような行動を時折取りもした。
それに対して、時には笑い時には冷たく躱しながら、心の何処かが壊れていく音が聴こえてもいた。
そしてとうとう。
足利尊氏の実弟、実質上の副将軍。
そのような自分自身の存在が、兄の行く末に影を落とし始めた。
二人の関係にも歪みが生じつつあった。
―――兄とこれ以上ともに進むことができない。
それを決意するにも、時間が必要だった。
「でも、ようやく今になってわかりました。これを終わらすにはこの方法しかないんです」
直義は尊氏に盃を握らせる。
そして、酒をなみなみと注ぐ。
「だから兄上――。あなたの手で私を死なせてください」
外へ出ると、やはり辺り一面は白銀の世界となっていた。
静かに静かに、雪が天から舞い降りてくる。
今年最後の雪であろうか。
弥生はもうすぐそこまで来ている。
雪解けの季節が。
(雪解けか―――)
その言葉につられるかのように、ふいに、かつて弟が呟いた言葉を思い出す。
―――兄上と私は、薄氷の上を歩んでいるようなものだ。
あの時の弟は、泣き笑いのような顔をしていた。
薄氷――春先に解け残る薄々とした氷に自分たちの関係を喩えた弟。
壊れそうが故にこわごわと歩む。
―――危うさを抱きながらも、手を差し伸べあって生きてきた自分たち。
すぐにも破れそうな氷は、それでも破れることはなかった。
しかし今、薄氷は破られた。
(壊したのは、俺か、それともおまえか)
壊れてしまうと二度とは同じ形には戻ることはできない。
その割れ目から、溢れ出てくる水。
まるで、尊氏の今の心境によく似ている。
身体の何処かが割れ、血を流しているように、痛い。
(これがおまえの望みなのか、直義)
この疵を抱えて、自分はこの先生きていかなければならないのか。
独りで。
―――独りなのだ自分は。
だがそれを哀しいと思う心はもうない。
すべて弟が持っていったのかも知れない。
夜明けにはまだ遠い暗い天を、一度仰ぎ見る。
次々と白い大地に舞い落ちる雪に、もう取り戻せない何かを感じた。
尊氏は雪の中へと一歩一歩踏み出す。
―――二度と後ろを振り返ることをせずに。
未だ降り止まぬ雪が、足跡を一つ残らず消していった。
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